続・現代をみる

NHK Commentator No.7 Official Blog

【核心解説】「21世紀の情報通信メディア論① 情報の付加価値向上への取り組み」

皆さん、こんにちは。

 

今回から、「21世紀の情報通信メディア論」と題して、何回かに分けて論じていきたいと思います。

 

第1回目は、「情報の付加価値向上への取り組み」について、考えを述べてみたいと思います。

 

私は、経済・社会問題をはじめとした様々なテーマについて、情報発信を行っていますが、常に心掛けていることは、各課題についての自らの見解を述べる際に、必ず社会の発展に結びつく「付加価値」を加味して、論じるということです。

 

各課題についての個人的見解も、インターネット上にアップロードされた時点で、一つのテキストデータになりますから、そのデータが社会の発展にとって有益なものでなければ、無駄な労力となり、情報発信する意味自体がありません。誤解を招かないように付け加えれば、そこが、私の提言である「見解」と「悪意のフェイクニュース」との根本的な質的相違点です。

 

例えば、私が、「日銀の金融緩和政策の継続は適切かどうか」等について、私見を述べる際に、世界経済・日本経済の回復・発展にとってプラスになるかどうかを考慮することは重要なポイントです。ここが「情報の付加価値」というところで、ここをいかに最大化するかが、情報発信の際に最も気を遣う点になります。単なる破壊的混乱を誘発する情報が「悪意のフェイクニュース」だとすれば、この部分での良識の発動があるかないかが「高付加価値情報」との分岐点と言うことができます。

 

また、既存メディアのいわゆる各種「一次情報」に、どのような考察と検討を加えて「高付加価値二次情報」を発信するかも、大きなポイントとなります。既存メディアの存在意義の一つは、「信頼できる一次情報の取材と発信」にありますから、善意に基づいてその情報に「高い付加価値」を加えて発信することにより、経済発展や社会問題の解決に連結すれば、情報受信側にとっては良好なメディアの活用ができ、メディア側にとってもより良質な情報提供のさらなる動機づけとなり、良好な社会的循環ができていきます。

 

いずれにしろ、「社会貢献活動の一環としての意志力の行使」が、私にとっての重要なポイントになります。

 

【核心解説】「インターネット上の情報の質的向上をいかに図るべきか?」

皆さん、こんにちは。

 

本日は、

 

「インターネット上の情報の質的向上をいかに図るべきか?」

 

について、考えを述べてみたいと思います。

 

最近、「フェイクニュース」が社会に及ぼす影響について、大きくクローズアップされています。

www.nhk.or.jp

 

インターネットというのは、本来、遠隔地間における情報伝達・通信手段としての役割が重要です。また一方で、インターネット空間というのは、基本的に、自由な空間であり、人々が自由に情報を発信でき、共有できるという利点があります。今回の、「フェイクニュース騒動」というのは、この「インターネット空間の自由度の高さ」を、恣意的に悪用したもので、結局は、「インターネット上の情報の信頼度」を吟味する人々の判断力の問題です。

 

事実を歪曲するための悪意の情報拡散という手法は、インターネットが普及する以前から、流言飛語という形で行われてきたものです。それが、インターネットという情報拡散装置を効果的に利用することによって、現代型の一種の悪意の諜報活動が行われているのです。

 

インターネット上のテキストデータ、画像データ、動画データなどの各種データは、情報がアップロードされた時点で一つのデータであり、それが真実であるか、有益なものであるか、フェイクであるか、悪意であるか、は別として、そのデータをいかに取り扱うかは、利用する側の判断に大きく依存するのです。まさに、人々の良心に依存しています。

 

また、情報を発信する側に、社会問題を解決しようとか、ビジネスを効果的に展開しようとかという、社会的に有益な動機があれば、おのずと善意を持つ人々の共感が得られ、インターネット上の情報の質的向上につながっていくのですが、それが悪意を持って受け取られ、利用されてしまう現状は、残念と言わざるを得ません。

 

イギリス公共放送BBCが、フェイクニュースの検証とその拡散の防止に取り組んでいるということは、評価に値します。

www.bbc.com

今後のメディアの役割の一つとして、流通データのクオリティーコントロールの強化が挙げられてくることは、社会の要請でもあります。

 

高度に情報処理技術が発展した現在の状況において、情報発信者の質・情報利用者の判断力の質・情報自体の社会的価値が、一層強く問われる時代に、私たちは生きています。